それがぼくには楽しかったから

言わずと知れた、Linux の開発者である Linus Torvalds の自伝です。


それがぼくには楽しかったから 全世界を巻き込んだリナックス革命の真実 (小プロ・ブックス)

それがぼくには楽しかったから 全世界を巻き込んだリナックス革命の真実 (小プロ・ブックス)


# Amazon のマーケットプレースで 1円(!) で売られていたので思わず買ってしまいました。でも、読んでみたら、定価でも全然高くない良書でした。 :-p
# カバーが丸くくり抜かれていて、そこからペンギン (例のくちばしの黄色いやつ) が顔をのぞかせているとってもかわいい本です。カバーをとるとペンギンがわらわらといますw


リーナス自身がどんな風に育ち、どのように Linux が開発され、そして世界に広まっていったのか? それが、家族や本人、そしてジャーナリストであるデイビッド ダイヤモンドによって語られています。もちろん自伝なので、本人による語りがもっとも多く、リーナスによる主観的な語りが 9割、デイビッドや家族による客観的なエピソード紹介が 1割といった配分でしょうか。かなり赤裸々です。


タネンバウム教授との論争や、スティージョブズやビル ジョイとの会談、また、リチャード ストールマンやエリック レイモンドらへの考えが、若干シニカルながら、リーナスの人柄全開で書かれていて、まさにリーナスとはこういう人なんだというのが伝わってきます。話の流れ上、技術的なことにも若干は触れていますが、哲学書をいった趣きですね。


# 同じく OS 開発つながりとして、以前、Windows の開発の舞台裏をまとめた「闘うプログラマー」を読んだ記憶があります。こちらは、企業におけるソフトウェア開発の現実、企業文化の衝突や人間同士の協調と対立、そのなかでのプログラマーたちの苦悩が描かれていたと思いますが、あわせて読んでみるのもまた面白いかと。


闘うプログラマー 上巻

闘うプログラマー 上巻



以下、印象に残った部分の抄録です。
いっぱいありすぎですね... (^^;

人生にとって意義のあることは3つある。3つの原動力だ。人の営みのすべてのこと...いや、人はもちろん、生きとし生けるものが行うすべてのことの原動力だ。
1つめは生き延びること。2つめは社会秩序を保つこと。3つめは楽しむこと。(中略)
人生の意味は、この第三ステージにたどり着くことだといえる。つまり、第三ステージにたどり着けば、あがりってこと。ただし、まず前の2つのステージを経験しないとだめだけどね。

フロッピーコントローラについてきたドライバがよくなかったので、自分で作ることにした。そのプログラムを書いてるうちに、このOSにいくつかのバグがあることを見つけた。というか、マニュアルに書いてあるOSの動作と、実際の動作とに相違があったんだ。自分で書いたプログラムが動かなかったので、その事実に気づいたんだ。
だって、ぼくの書くコードはいつでも、エヘン、完璧だからね。だから、原因はほかにあると思ったわけだ。そういう経緯から、ぼくは OS に手を入れることにした。つまり、OS を逆アセンブルることにしたんだ。

コンピュータサイエンスと物理学には共通点がたくさんあると思っている。どちらも、かなり根本的なレベルで、世界がどのように動いているかを考えるものだ。もちらん、相違点もある。物理学では、世界がどのように作られているかを見つけ出そうとするけど、コンピュータサイエンスでは、自分で世界を作るのだ。コンピュータという世界の中では、君は創造主だ。君はその中で起こることのすべてを支配する。君がそれなりに有能なら、神になることも可能だ。ちっぽけな世界の神様だけど。

お金が欲しくなかった理由は、いろいろあった。初めてリナックスをアップしたとき、ぼくは、他人の築いた基礎の上に、アイザックニュートンのいう「巨人の肩」に、みずからの研究を重ねていく何世紀にも及ぶ科学者たちの足跡をたどっている気分だった。みんなもこれは便利だと思ってくれるように、みんなとぼくの OS を共有したかった。それだけじゃなく、フィードバックも(それから、賞賛も)欲しかった。もしかしたら、ぼくのOSを改良してくれるかもしれない相手からお金を取るのはおかしいと思っていた。

トーベは15人いた生徒のうちの一人だった。(中略)
とにかく、ぼくは言ったのだ。「宿題として、ぼくにメールをください」と。他の学生のメールは、簡単なテストメッセージや、あまり記憶に残らない授業の感想などだった。
ところが、トーベは、デートしてください、と書いてよこしたのだ。ぼくは、電子的にアプローチしてきた最初の女性と結婚したのである。

わたしはペンギンはどうかしらって思ったわ。リーナスは、オーストラリアの動物園でコビトペンギンに嚼まれたことがあるの。彼はなんにでも触るのが好きで、ガラガラヘビだって棒でつついたりするのよ。動物園にいたそのペンギンは背丈が30センチくらいで、彼は触ろうとして檻の中に手を入れたの。指を魚みたいに動かしてみせたら、ペンギンが彼のところに来て、嚼みつき、それで魚じゃないってわかったみたい。リーナスはペンギンに嚼みつかれたけど、それでもペンギンを嫌いにならなかった。それ以来、彼はペンギンに夢中なの。ペンギンがいるところなら、どこへでも見に行きたがるのよ。

レッドハットはぼくにストックオプションをくれた。(中略)
ぼくのストックオプションは魔法みたいに倍に増えていた。50万ドルが100万ドルになていたのだ。
マスコミに描かれていたイメージはどこへやら、清貧を誓った無私無欲の庶民の英雄は、率直なところを言えば、有頂天になってしまった。よーし、正直に言ったぞ。

ここで僕の黄金律を披露しよう。
一つ目は「自分がして欲しいことを人にもしてあげよう」。このルールを遵守すれば、どんな状況にあっても自分がどんな行動をとるべきかちゃんとわかるというわけ。二つ目は「自分のすることに誇りを持て」三つは「そして楽しめ」

誰でもゲームに参加できるようにした GPL は素晴しいものだ。それが人類にとってどれほどの進歩か、考えてみてほしい。でも、だからといって、どんな新しいものでも GPL にしなくちゃいけないってことなのか? (中略)
ぼくは、さまざまな理由から、遠くからリチャードを賞賛することにしている。それに、ぼくはリチャードのような確固たる道徳的意見をもっている人を尊敬するタチらしい。だけど、どうして彼らは、そういう信念を内に秘めておくことができないのだろう? ぼくが一番嫌いなのは、人からああしろこうしろ、あれはするなと言われることだ。ぼく自身が決めたことに対して、文句を言う権利があると思っている人は大嫌いだ (ただし、多分、ぼくの奥さんは除く)。

ぼくは、著作権者として、自分なりの権利を持っている。しかし、権利とともに義務、ある地域の人が言う、高い身分にともなう義務 (ノブレス オブリージュ) も発生する。だから、ぼくは自分の義務を、責任あるやり方で権利を講師する義務のことだと思っている。権利を持っていない人への武器をして使いはしない。あるアメリカの偉人が「あなたの著作権があなたのために何をなしうるかではなく、あなたが、あなたの著作権のために何をなしうるかを問いなさい」と言ったように、である。

ぼくらは理念があって、オープンソースを売り込んだわけじゃない。オープンソースこそ最高のテクノロジーを開発し、改良する最良の方法だとわかってきたので、その理念が世間の注目を集めだしたのだ。(中略)
オープンソースモデルは、人々に情熱的な生活を送るチャンスを与える。楽しむチャンスも。さらに、たまたま同じ会社で机を並べている数人の仲間とではなく、世界で最も優秀なプログラマーたちと仕事をするチャンスも。オープンソースの開発者たちは、仲間からいい評価を得ようと懸命に努力する。こうしたことは大きな原動力になるに違いない。

オープンソースは外部の才能を採り入れる最善の手段だ。とはいえ、会社のニーズを把握している社内の人間も必要だ。その人物がプロジェクトのリーダーでなくてもかまわない。(中略)
ただ、外部の人間が会社のニーズにあわせた方向にプロジェクトを進めないかもしれないという問題はある。だから、会社は自分たちのニーズにはちゃんと気を配らなくちゃいけない。外部の資源はより安上がりで、より完璧な、よりバランスのとれたシステムを作るけれど、逆効果の面もある。肥大したシステムはもはや会社のニーズだけを考慮するわけにはいかなくなるのだ。(中略)

このリーダーはオープンースを実行することで給料をもらっている。社内の仲間に同意することではなく、ただプロジェクトを遂行するために給料をもらっている。そのことは、本人も他の誰もが承知している。会社とあまりに緊密な関係にあるリーダーには、危険が伴う。仲間たちは、リーダーの技術力は信頼しても、それ以外の判断については信頼しないかもしれないからだ。

ぼくはテクノロジー屋として、テクノロジーが何も動かさないことを知っている。社会がテクノロジーを変化させるのであって、その反対じゃないんだ。テクノロジーは、ぼくたちにできることとできないことの境界を引くだけだ。どのくらい安くできるかという境界を引くだけなのだ。
テクノロジーは、それが生み出した機器同様、少なくともいままでのところ、本質的には面白くもなんともないものだ。そのテクノロジーを使ってできることが面白いだけの話だ。その推進力になっているのは、人間の欲求と関心だ。(中略)
生存。社会化。娯楽。これが進歩だ。ぼくちがやっていることはどんなことでも、結局は自分自身の楽しみおためであるように思えるからだ。少なくとも、ずっと未来まで進歩する可能性を取りあげられずにいたら、最後に娯楽が来るだろう。